アンヘル・ラブルナ
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名前 | ||||||
本名 | アンヘル・アマデオ・ラブルナ Ángel Amadeo Labruna | |||||
ラテン文字 | Ángel LABRUNA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | (1918-09-28) 1918年9月28日 | |||||
出身地 | ブエノスアイレス | |||||
没年月日 | (1983-09-20) 1983年9月20日(64歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1939-1959 | リーベル・プレート | 515 | (293) | |||
1960-1961 | ランプラ・ジュニオルス | 16 | (3) | |||
1961 | プラテンセ | 2 | (0) | |||
1961 | ランヘルス | 5 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1942-1958 | アルゼンチン [1] | 37 | (17) | |||
監督歴 | ||||||
1968-1970 | リーベル・プレート | |||||
1971-1972 | ロサリオ・セントラル | |||||
1973 | ラシン・クルブ | |||||
1974 | CAタジェレス | |||||
1975-1981 | リーベル・プレート | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アンヘル・アマデオ・ラブルナ(Ángel Amadeo Labruna, 1918年9月28日 - 1983年9月20日)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。1940年代に「ラ・マキナ(機械)」と呼ばれたCAリーベル・プレートの一員である。
CAインデペンディエンテなどに所属したアルセニオ・エリコと並び、アルゼンチンリーグの最多得点記録者でもある。
経歴
1939年6月18日、CAリーベル・プレートでアルゼンチンリーグデビュー。その後20年に亘って所属して9度のリーグ優勝を果たし、1943年と1945年にはそれぞれ23得点と25得点を挙げて個人としてもリーグ得点王にも2度輝いた[2]。また、ボカ・ジュニアーズとのスーペルクラシコでも通算16得点を記録した。アドルフォ・ペデルネラ、ホセ・マヌエル・モレノ、フェリックス・ロウスタウ(スペイン語版)、フアン・カルロス・ムニョスらが共にプレーした当時、リーベル・プレートは"La Maquina"(機械)と呼ばれた。
1959年、ラブルナは515試合で293得点という記録を残してクラブを離れ、ランプラ・ジュニオルス、CAプラテンセ、CSDランヘルス(スペイン語版)などでプレー。43歳で引退した。
アルゼンチン代表として37試合に出場。1955年のコパ・アメリカで優勝したほか、40歳で迎えたスウェーデンW杯にも招集された。しかし、同世代の選手と同じように第二次世界大戦によって他のワールドカップに出場することは出来なかった。
引退後はアシスタントコーチや監督などを務め、リーベル・プレートやCAプラテンセ、CAロサリオ・セントラル、ラシン・クルブ、CAラヌース、CAチャカリタ・ジュニアーズ、AAアルヘンティノス・ジュニアーズなどの指揮を執った。ロサリオ・セントラルでは、1971年にクラブ初の優勝に導いた。
1981年にリーベル・プレートの監督を退任し、1983年に死去。ブエノスアイレスに埋葬された[3]。毎年、リーベル・プレートのファンはラブルナの誕生日である9月28日を祝っている。
タイトル
クラブ
- CAリーベル・プレート
- アルゼンチンリーグ : 1941, 1942, 1945, 1947, 1952, 1953, 1955, 1956, 1957
- コパ・アルダオ : 1941, 1945, 1947
代表
- アルゼンチン代表
- 南米選手権 : 1946, 1955
脚注
外部リンク
- アンヘル・ラブルナ - Find a Grave(英語)(英語)
- Goal credited to Angel Labruna(英語)
アルゼンチン代表 - 1958 FIFAワールドカップ | ||
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