サンディ・パーカー
サンディ・パーカー | |
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プロフィール | |
リングネーム | サンディ・パーカー プリンセス・モホーク |
ニックネーム | 黒い稲妻 |
身長 | 156cm |
体重 | 63kg |
誕生日 | (1952-03-02) 1952年3月2日(72歳) |
出身地 | カナダ ブリティッシュコロンビア州バンクーバー[1] |
トレーナー | ルー・クライン[2] Mary Jane Mull[2] Lucille Dupree[2] ファビュラス・ムーラ[2] |
デビュー | 1969年 |
引退 | 1986年[2] |
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サンディ・パーカー(Sandy Parker、1952年3月2日 - )は、カナダの元女子プロレスラー。ブリティッシュコロンビア州バンクーバー出身。
来歴
ルー・クラインの下でトレーニングを積み[2]、1969年にデトロイトでデビュー。その後、南カリフォルニアに移り、ファビュラス・ムーラの指導を受ける[2]。
1971年11月、スー・グリーンとのタッグでトニー・ローズ&ドナ・クリスタネーロが持つNWA世界女子タッグ王座に挑戦し獲得。しかし、この王座は現在まで公認されていない[3]。翌年のスーパーボウル・オブ・レスリングではデビー・ジョンソンを新パートナーに起用し、ローズ&クリスタネーロから王座を奪回しようとしたが失敗。
1973年、全日本女子プロレスに初来日し日本に定着。星野美代子が持つWWWA世界シングル王座に挑戦し、奪取に成功。しかし、7月に星野に奪回されてしまう。一方で、マスクド・リー、ジーン・アントン、ベティ・ニコライとパートナーを変えつつWWWA世界タッグ王座にも戴冠した。
1974年には旗揚げシリーズのみであるが国際プロレスにも参戦しており、ポーラ・ケイとのタッグで小畑千代&佐倉輝美組と対戦している。
1975年に帰国し、アントン相手にオレゴン州初の女子プロレス戦を行っている[4]。
1977年を最後に全女マットからは遠ざかるが、1981年に「プリンセス・モホーク」を名乗り九州シリーズでの異種格闘技戦要員として再度参戦。九州出身のデビル雅美や長与千種と対戦した。
1986年に引退し[2]、2004年にはカリフラワー・アレイ・クラブ(CAC)に表彰された[5]
タイトル
- WWWA世界シングル王座
- WWWA世界タッグ王座
得意技
脚注
- ^ Oliver, Greg (2004年4月18日). “Heenan given CAC's top honor”. SLAM! Wrestling. 2009年6月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Kreiser, Jamie Melissa (2008年4月7日). “Sandy Parker: Addicted to wrestling”. SLAM! Wrestling. 2009年6月30日閲覧。
- ^ Duncan, Royal and Gary Will (4th Edition 2006). Wrestling Title Histories. Archeus Communications. ISBN 0-9698161-5-4
- ^ Kucera, Kathy (1975年9月21日). “The villain wears lipstick”. Eugene Register-Guard. 2009年6月30日閲覧。
- ^ “Past Honorees”. カリフラワー・アレイ・クラブ. 2009年6月29日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 女子ガイコク人列伝(第10話)サンディ・パーカー
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