ダライスン・ゴデン・ハーン

ダライスン
モンゴル帝国第37代皇帝(ハーン
在位 1548年 - 1557年
別号 ゴデン・ハーン

全名 ダライスン・ゴデン・ハーン
出生 1520年
死去 1557年
子女 トゥメン・ジャサクト・ハーン、ジョント太子、ダライ・バガ・ダルハン、ダイチン太子
家名 ボルジギン氏
父親 ボディ・アラク・ハーン
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ダライスン・ゴデン・ハーンモンゴル語:Дарайсүн гүдэн хаан、英語:Daraisung Guden Khan、1520年 - 1557年)は、モンゴル帝国の皇帝(ハーン)であり、チャハル・トゥメンの当主である。ボディ・アラク・ハーンの長男。

生涯

1520年[1]、ボディ・アラク・ハーンの長男として生まれる。

1547年、ボディ・アラク・ハーンが崩御すると、右翼のトゥメト・トゥメン当主であるアルタン・ハーンは直ちに左翼三トゥメンに攻め込み、ダライスン太子以下を東方に放逐した。ダライスン太子はやむを得ず、チャハル部とハルハ部の一部(五オトク・ハルハ)を率いて大興安嶺山脈の東、遼河の上流域に遊牧地を移した[2][3]。翌年(1548年)、ダライスンはハーンとなる。

1551年、ダライスン・ハーンはアルタン・ハーンと和睦し、八白室(ナイマン・チャガン・ゲル:チンギス・カン廟)の神前で正式にハーンに即位することができ、ダライスン・ゴデン・ハーンとなった。ダライスン・ゴデン・ハーンはその代償として、元代以来の名誉ある称号「司徒」をアルタンに授け[4]、アルタン・ハーンが「ゲゲン・ハーン」と称することを承認した。[5]

1557年、ダライスン・ゴデン・ハーンは38歳で崩御し、翌年(1558年)長男のトゥメン太子がハーン位を継いだ[2]

[5]

脚注

  1. ^ 蒙古源流』では「甲辰の年(1544年)」としているが、次の「二十九歳の戊申の年(1548年)」と合わないため、和田清が独訳本に従って修正したように(『東亜史研究(蒙古篇)』p522)、庚辰の年(1520年)とする。《岡田 2004,p243》 なお、1516年や1519年という説もある。
  2. ^ a b 岡田 2004,p243-244
  3. ^ 宮脇 2002,p154
  4. ^ 『蒙古源流』には「(ダライスン・ゴデン・)ハーンはアルタンにシタウ・ハン(sitau qan)の称号を与えて」とあり、『アルタン・ハーン伝』には「アルタン・ハーンにソート(suu tu)の称号を賜わった」とある。岡田英弘はこれを「元代以来の名誉ある称号司徒」と訳したが、吉田順一はこれに疑問を抱き、且つ『蒙古源流』の記述(ダライスン→アルタン)よりも、『アルタン・ハーン伝』の記述(ボディ・アラク→アルタン)の方が正しいとしている。《吉田 1998,p263-264》
  5. ^ a b 岡田 2004,p244

参考資料

モンゴル帝国・元朝皇帝(1548年-1557年)
元朝以前

チンギス・カン(太祖)1206-1227 / オゴデイ(太宗)1229-1241 / グユク(定宗)1246-1248 / モンケ(憲宗)1251-1259 / アリクブケ1259-1264 / クビライ(世祖)1260-1271

元朝
北元

トゴン・テムル(恵宗)1368-1370 / アユルシリダラ(昭宗)1370-1378 / トグス・テムル(末主)1378-1388 / イェスデル1388-1391 / エンケ1391-1394 / エルベク1394-1399 / クン・テムル1399-1402 / オルク・テムル1402-1408 / オルジェイ・テムル1408-1412 / ダルバク1412-1415 / オイラダイ1415-1425 / アダイ1425-1438 / トクトア・ブハ1438-1452 / アクバルジ1452-1453 / エセン1453-1454 / マルコルギス1455-1465 / モーラン1465-1466 / マンドゥールン1475-1479 / ボルフ・ジノン1480-1487 / ダヤン・ハーン1487-1524 / バルス・ボラト1524 / ボディ・アラク1524-1547 / ダライスン・ゴデン1548-1557 / トゥメン1558-1592 / ブヤン1593-1603 / リンダン1603-1634 / エジェイ1634-1635