ポール・セリュジエ

ポール・セリュジエ
本名 Paul Sérusier
誕生日 (1864-11-09) 1864年11月9日
出生地 フランスの旗 フランス帝国パリ
死没年 1927年10月7日(1927-10-07)(62歳)
死没地 フランスの旗 フランス共和国モルレー
国籍 フランスの旗 フランス
運動・動向

ナビ派

ポン=タヴェン派
テンプレートを表示
タリスマン(1888年) オルセー美術館蔵)

ポール・セリュジエ(Paul Sérusier, 1864年11月9日 - 1927年10月6日[1]/10月7日[要出典])は、フランスパリ出身のポスト印象派の画家。ナビ派の一員として知られている。

生涯

パリに生まれた。父親は香水作りの会社を経営する実業家で、パリの名門高校で哲学や古典語などを学んだ。しばらく父親の友人の会社で働いた後、1885年にパリの私立の美術学校、アカデミー・ジュリアンに入学し[2]、陽気な性格は教師や学生たちに愛された。後にナビ派のメンバーとなる画家、モーリス・ドニ(1870-1943)とはこの学生時代から友人となった。

1888年の夏をブルターニュの芸術家村、ポン=タヴァンで過ごした。当時ポン=タヴァンには、エミール・ベルナールとポール・ゴーギャンを中心とする画家のグループがいた。セリュジエはゴーギャンの指導を受けた[3]。パリに戻り、ゴーギャンの指導を受けて描いた「タリスマン」という絵画を示し、ゴーギャンから学んだアイデアについて友人たちと熱心に議論した。1889年の夏にもポン=タヴァンに滞在し、セリュジエのとまったPouldu村の宿屋は「ポン=タヴァン派」の拠点となった。

ピエール・ボナールモーリス・ドニアンリ=ガブリエル・イベルスポール・ランソンとともに「ナビ派」と呼ばれる画家のグループが作られ、後にアルマン・セガンエドゥアール・ヴュイヤールケル・グザヴィエ・ルーセルらが加わった。1891年にゴーギャンがタヒチに移った後、グループの結束は緩み、それぞれの画家が独自の画風にかわっていくことになった。1892年にはセリュジエもポン=タヴァンへは行かず、ブルターニュのユエルゴアで過ごした。その後パリで俳優で演出家のリュニェ=ポー(Lugné-Poe)の舞台美術の仕事もした。

作品

関連項目

脚注

  1. ^ Paul Sérusier French painter Encyclopædia Britannica
  2. ^ Arthur Wesley Dow, Joseph Masheck, Composition: A Series of Exercises in Art Structure for the Use of Students and Teachers University of California Press, 1998. ISBN 0-520-20749-1
  3. ^ Bennard B Perlman: Robert Henri: His Life and Art, page 17. Courier Dover Publications, 1991. ISBN 0-486-26722-9

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ポール・セリュジエに関連するカテゴリがあります。
  • Sérusier at Olga's Gallery
  • 表示
  • 編集
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • FAST
  • ISNI
  • VIAF
  • WorldCat
国立図書館
  • フランス
  • BnF data
  • ドイツ
  • イスラエル
  • アメリカ
  • チェコ
  • オランダ
  • ポーランド
芸術家
  • ニューヨーク近代美術館
  • オルセー美術館
  • カナダ国立美術館
  • ヴィクトリア国立美術館
  • オランダ美術史研究所データベース
  • シュテーデル美術館
  • ULAN
人物
  • ドイッチェ・ビオグラフィー
その他
  • SNAC
  • IdRef