マタラム王国

マタラム王国
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パジャン王国 1587年 - 1755年 スラカルタ王国
ジョグジャカルタ特別州
オランダ領東インド
マタラム王国の国旗
(国旗)
マタラム王国の位置
スルタン・アグン時代の支配領域
公用語 ジャワ語
宗教 イスラム教
首都 コタグデ他
スルタン
1587年 - 1601年 セノパティ
1749年 - 1755年パクブウォノ3世
変遷
建国 1587年
分裂1755年2月13日
現在インドネシアの旗 インドネシア
インドネシアの歴史
初期王国
クタイ王国 (4世紀末-5世紀初め頃)
タルマヌガラ王国 (358-723)
スンダ王国(英語版) (669-1579)
シュリーヴィジャヤ王国 (7世紀–14世紀)
シャイレーンドラ朝 (8世紀–9世紀)
古マタラム王国 (752–1045)
クディリ王国 (1045–1221)
シンガサリ王国 (1222–1292)
サムドラ・パサイ王国 (1267-1521)
マジャパヒト王国 (1293–1500)
イスラーム王朝の勃興
マラッカ王国 (1400–1511)
ドゥマク王国 (1475–1518)
アチェ王国 (1496–1903)
バンテン王国 (1526–1813)
パジャン王国(英語版) (1568年-1586)
マタラム王国 (1500年代-1700年代)
ヨーロッパ植民地主義
オランダ東インド会社 (1602–1800)
オランダ領東インド (1800–1942)
インドネシアの形成
日本占領下 (1942–1945)
独立戦争 (1945–1950)
オランダ・インドネシア円卓会議 (1949)
インドネシアの独立
9月30日事件 (1965–1966)

マタラム王国マタラムおうこく)は、ジャワ島中部のジョグジャカルタ地方に栄えた王国。「マタラム」とは、ジョグジャカルタ地方の古地名である。

ジャワの歴史上、マタラム王国と称される国は、8 - 9世紀に繁栄した古マタラム王国16世紀末に興った新マタラム王国の2つがある。これらはそれぞれの王権の宗教的基盤から、ヒンドゥー・マタラム、イスラム・マタラムとも区別される。

通常、単に「マタラム王国」といった場合、後者のことを指す場合が多く、以下の本文では後者の新マタラム王国について扱う。前者については古マタラム王国を参照。

概要

マタラム王国 (Kesultanan Mataram, Sultanate of Mataram) は、16世紀末にインドネシアジャワ島中部に興ったイスラム王国である。たんにマタラームとも表記する。また、ヒンドゥー王朝である古マタラム(ヒンドゥー・マタラム)と区別するために新マタラムイスラム・マタラム)ともいう。

島嶼部東南アジアで最大の産地であった中部ジャワの肥沃な農業地帯を支配し、その輸出港としてジャワ島北部の港市諸国家を影響下に置いて、17世紀にかけてジャワ島中部・東部で強盛を誇った。

バタヴィアバンテン王国をのぞくジャワ西部も強い影響下に置いたが、18世紀半ばにオランダ東インド会社の介入によって、1755年ジョグジャカルタスラカルタの2王家に分割されて、マタラム王国という国名は消滅した。

歴史

建国期

肥沃な米の生産地であったジャワ島中東部の内陸部をめぐっては、古マタラム王国の時代からジャワ東部のクディリ王国、ジャワ島北岸のマジャパヒト王国ドゥマク王国などが覇権を築いてきた。

マタラム王家の年代史『ババッド・タナハ・ジャーウィー』によると、中部ジャワ内陸部に台頭したスラカルタパジャン王国(英語版)と、ジョグジャカルタのマタラム王国の2王国は、ドゥマク王国をとおしてマジャパヒト王国の後継者であるという[1]。パジャン王ジョコ・ティンキール(英語版)の命を受けたキヤイ・グデ・パマナハン(英語版)がジョグジャカルタの地のマタラムに勢力を拡げ、パマナハンの子、スタウィジャヤ(英語版)セノパティ・イン・アラガ(スペイン語版)、在位1584年-1601年)がマタラムをパジャンから独立させた[2]

勢力拡大期

1586年にマタラムを建国したセノパティはパジャンを併合し、1590年代にはジャワ中東部の北岸のドゥマクやジュパラなど、イスラーム系港市国家を支配し、重要な米の輸出港を獲得した。セノパティの子、パネンバハン・セダ・クラプヤック(スペイン語版)(在位:1601年 - 1613年)は、当時の東ジャワでもっとも繁栄していたスラバヤに攻撃を開始し、クラプヤックの後継者スルタン・アグン(在位:1613年 - 1645年)[3]が、1625年、スラバヤ、マドゥラ島を支配下に置いた[4]

こうしてジャワ島の中東部に覇権を打ち立てたマタラムは、ジャワ島西部のバンテン王国への進出をはかり、1628年から1629年には二度にわたって、オランダが商館を開設したバタヴィアを攻撃した。スルタン・アグンはジャワからオランダの勢力を駆逐することには失敗したものの、17世紀前半にはバタヴィアとバンテンをのぞくジャワ全島を支配下に置くことに成功した。

アグンの後を継いだアマンクラト1世(在位:1646年 - 1677年)はオランダとの関係改善をはかり、1646年に平和協定を締結し、ジャワ島東部北岸の諸港におけるオランダとの交易を独占した。国内では行財政の中央集権化を進め、これに従わない地方支配者、イスラーム指導者を次々と暗殺した。こうしたアマンクラト1世の専制に不満を抱いた地方貴族層から反乱が起こり、1677年、反乱軍の攻撃を受けて首都は陥落した[5]

衰退期

アマンクラト1世の後を継いだ皇太子(アマンクラト2世(英語版)、在位:1677年 - 1703年)は、反乱討伐のためオランダの支援を要請し、その見返りとして、オランダは関税免除、バタヴィア領拡大、スマラン割譲、織物・阿片の輸入独占と砂糖買い付け独占などの特権を得た。オランダの支援を受けたマタラムは1670年代末までには反乱軍の駆逐に成功したが、その後のオランダとの関係では、交渉力の低下をまぬがれなくなった[6]

マタラム王国の分割

1703年にアマンクラト2世が死去するとアマンクラト3世(インドネシア語版)が王位に就いたが、これにアマンクラト2世の弟が異議を唱えるとオランダ東インド会社が介入して、王位継承の内紛により第1次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)が起こり、弟がパクブウォノ1世(インドネシア語版)として即位した。

1719年にパクブウォノ1世が死去すると、長男がアマンクラット4世(インドネシア語版)として即位。叔父や弟が反対し第2次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)が起こり、オランダ東インド会社が介入して、叔父や弟を島流しにした。

華僑虐殺事件(英語版)(Chinese War)後、パクブウォノ2世(インドネシア語版)は華僑を支援してオランダ軍を襲わせたが失敗。パクブウォノ2世はスラカルタに追放された。

1749年にパクブウォノ2世が死去すると、パクブウォノ3世(英語版)が即位したが、パクブウォノ2世の弟が反対し第3次ジャワ継承戦争(インドネシア語版)となった。オランダ東インド会社はパクブウォノ3世を支援したが、1755年になると戦費が増大して途中で支援を断念した。この結果、ハメンクブウォノ1世(英語版)はジョグジャカルタ(スルタン家(英語版))を、パクブウォノ3世はスラカルタススフナン家(英語版))を継承した。さらに1757年にはススフナン家からマンク・ヌゴロ家(英語版)が、1813年にはスルタン家からパク・アラム家(英語版)が分立した。マタラム王国という名前は消滅し、これら4つの王家の領地はオランダの保護領として自治権を与えられる「王侯領」とされた。1825年にジョグジャカルタのディポヌゴロ王子を中心として、オランダ支配に対する大規模な武装蜂起が発生したが(ジャワ戦争1830年に鎮圧された。

オランダ支配下の分割統治策により政治的には無力化されたが、ジョグジャカルタとスラカルタの王家はジャワ文化の中心としての地位を保ち続けた。インドネシア独立戦争において、ジョグジャカルタのスルタン家のハメンクブウォノ9世は開明的な君主として共和国側に協力し重要な役割を果たした。独立後はジョグジャカルタ特別州知事を長く務め、一時期は共和国の内相・国防相・副大統領に就任した。現当主のハメンクブウォノ10世もその跡を継ぎ、ジョグジャカルタ特別州知事とスルタンを兼ねた地位にある。

歴代スルタン

  1. セノパティ(1587年 - 1601年
  2. パネンバハン(1601年 - 1613年
  3. スルタン・アグン1613年 - 1645年
  4. アマンクラト1世1645年 - 1677年
  5. アマンクラト2世(1677年 - 1703年
  6. アマンクラト3世(1703年 - 1705年
  7. パクブウォノ1世(1705年 - 1719年
  8. アマンクラト4世(1719年 - 1726年
  9. パクブウォノ2世(1726年 - 1749年
  10. パクブウォノ3世(1749年 - 1755年

脚注

  1. ^ マタラムの建国をめぐっては史料的制約から不確かなことが多い。しかし、マタラム王国の年代史とともに、オランダ東インド会社の記録によって考証したところによれば、16世紀末にオランダ人がジャワに来た頃にはすでにマタラムが強大な権勢を誇っていたことは確かであるという。Ricklefs, 1993, p.41.
  2. ^ 弘末雅士「交易の時代と近世国家の成立」、池端編、山川出版社、1999年、115-116頁。
  3. ^ アグンが「スルタン」を名乗るのは、1639年に使節をメッカに派遣してその称号を得てからのことである。
  4. ^ 弘末、同、116頁。
  5. ^ 鈴木恒之「オランダ東インド会社の覇権」、石井編、2001年、111-113頁
  6. ^ 鈴木、同、113-114頁。

参考文献

  • Steinberg, David J., In Search of Southeast Asia : A Modern History , revised edition, Honolulu, University of Hawaii Press, 1987 ISBN 0824811100
  • Ricklefs, M. C., A History of Modern Indonesia since c.1300, 2nd edition, Stanford, California, Stanford University Press, 1993 ISBN 9780333576908
  • 増田与 『インドネシア現代史』、中央公論社1971年
  • 和田久徳ほか編 『東南アジア現代史Ⅰ 総説・インドネシア』、山川出版社<世界現代史5>、1977年
  • 永積昭 『インドネシア民族意識の形成』、東京大学出版会1980年 ISBN 4130250027
  • 石井米雄桜井由躬雄 『東南アジア世界の形成』、講談社<ビジュアル版 世界の歴史12>、1985年 ISBN 406188512X
  • 池端雪浦編 『東南アジア史Ⅱ 島嶼部』、山川出版社<新版 世界各国史6>、1999年 ISBN 4634413604
  • 永積昭 『オランダ東インド会社』、講談社<講談社学術文庫>、2000年 ISBN 4061594540 (旧版は、近藤出版社、1971年)
  • 石井米雄編 『東南アジア史3 東南アジア近世の成立』、岩波書店<岩波講座>、2001年 ISBN 4000110632

関連項目

外部リンク

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