ミハイル・ミケシン

ミハイル・ミケシン
Михаил Осипович Микешин
『M.O.ミケシンの肖像』 イリヤ・レーピン (1888年)
生誕 (1835-02-21) 1835年2月21日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ロスラヴリ郊外
死没 (1896-01-31) 1896年1月31日(60歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ペテルブルク
国籍 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
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ミハイル・オシポヴィチ・ミケシンロシア語: Михаил Осипович Микешин, ラテン文字転写: Mikhail Osipovich Mikeshin1835年 - 1896年)は、ロシアの画家、彫刻家(銅像原型製作者)。ロシア帝国の主要都市に数多くの屋外像、記念碑を制作した。

経歴

1835年2月21日、ロスラヴリ近郊の村に生まれる[1]。1852年から1858年までロシア帝国美術アカデミーに通う。 ミケシンは戦争画を得意としていたが、1859年にロシア建国一千年祭記念碑像のデザイン画がコンテストで優勝し、これ以降数多くの銅像制作の依頼が数多く舞い込んだ。 ミケシンは「正教、専制、民族性(ロシア語: Правосла́вие, самодержа́вие, наро́дность,)」をモットーにニジニ・ノヴゴロドクジマ・ミーニンニコラーエフのグレイク提督像、ロストフ・ナ・ドヌのアレクサンドル2世像など大仰な屋外銅像を設計した。

ミケシン作の記念碑でソ連時代を生き延びたものは数少ない。現存するものにはサンクトペテルブルクのエカチェリーナ2世像(1873年)、キエフボフダン・フメリニツキー像(1888年)、ノヴォチェルカッスクイェルマーク像(1904年)などがある。またロシア国外にもリスボンのペドロ1世 (ブラジル皇帝)像がある。

このうちフメリニツキーの像は、その原型が、ポーランド人ユダヤ人カトリック教会の司祭らを馬で足蹴にする17世紀のコサック首領、といったものであったため議論の的となり、結局銅像としてはこうした外国人嫌悪的な部分は省かれた。

1876年から1878年にかけては、風刺雑誌「プチラ (Пчела = )」の編集に携わり、ニコライ・ゴーゴリタラス・シェフチェンコの文章に挿絵・風刺絵などを書いた。

1896年1月31日、サンクトペテルブルクで死去した[2]

作品

脚注

  1. ^ Валуев Д.В. “Михаил Осипович Микешин – великий сын земли Рославльской 1”. 2014年10月3日閲覧。
  2. ^ Валуев Д.В. “Михаил Осипович Микешин – великий сын земли Рославльской 2”. 2014年10月3日閲覧。

文献

ウィキメディア・コモンズには、ミハイル・ミケシンに関するメディアがあります。

  • A. Savinov. Mikeshin. Moscow, 1971.
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