ラン・チリ航空621便墜落事故

ラン・チリ航空621便墜落事故
事故機の画像
事故機
事故の概要
日付 1961年4月3日
概要 墜落から54年後に機体発見
現場  チリ マウレ州 アンデス山脈
乗客数 20
乗員数 4
負傷者数 0
死者数 24(全員)
生存者数 0
機種 DC-3
運用者 チリの旗 ラン・チリ航空
機体記号 CC-CLDP
出発地 チリの旗 ガンボア空港(カストロ)
第1経由地 チリの旗 エル・テプアル国際空港(プエルトモント
最終経由地 チリの旗 マケウエ空港(テムコ
目的地 チリの旗 ロス・セリージョス空港(サンティアゴ
テンプレートを表示

ラン・チリ航空621便墜落事故は、1961年4月3日マケウエ空港(スペイン語版)テムコ)発、ロス・セリージョス空港(スペイン語版)サンティアゴ)行きのラン・チリ航空(現LATAM チリ)621便として運航されたDC-3が墜落し、2015年1月にアンデス山脈で機体が発見された事故である[1][2]

事故機の乗客にはコパ・チリ(スペイン語版)に出場したクルブ・デ・デスポルト・グリーン・クロス(スペイン語版)の選手8人、スタッフ2人が含まれていた[3]。追悼のため、同年のコパ・チリはコパ・チリ・グリーン・クロス(スペイン語版)と命名された[4]。この経緯から、チリではグリーン・クロスの悲劇スペイン語: Tragedia de Green Cross)として知られている。

機体

事故機は1943年にC-47Aとして初飛行したDC-3(シリアルナンバー9716、登録番号CC-CLDP、210号機)である。エンジンにはプラット・アンド・ホイットニー R-1830を選択し、事故当時の飛行時間は18,299時間であった[5]

621便は、ガンボア空港(英語版)(カストロ)から、エル・テプアル国際空港(英語版)プエルトモント)、マケウエ空港を経由してロス・セリージョス空港へ向かう便であった[6]

失踪

18時28分、621便はマケウエ空港から離陸した。雨中を飛行したため主翼とプロペラに着氷し、19時35分にはロス・アンヘレス上空より飛行高度の低下が要請された交信記録が残されている[注 1]。その後、サント・ドミンゴ(英語版)無指向性無線標識の記録を最後に消息を絶った[4][5]

失踪した機体の捜索が行われた。リナーレス(スペイン語版)の砲術学校所属のフアン・バンカラリ・サペティーニ(Juan Bancalari Zappettini)大佐によりリナーレス近郊の山腹に衝突したと推測された。4機のB-26が捜索と航空写真撮影のために用いられ、10日に機体の残骸が確認された。4月11日に尾部と何人かの遺体が発見されたことで、墜落により死亡したものと認定され17日に葬儀が行われた[4][7]。犠牲者の葬儀はチリ中央サッカー協会で行われた。グリーン・クロスの選手の棺は協会内の殿堂に安置されているが、棺は象徴的なもので収められているのは遺体ではなく灰や石であると、グリーン・クロスの選手で難を逃れたカルロス・アル=ノール・パラ(Carlos Al-Knor Parra)が証言している[8][9]

犠牲者

乗員4名、乗客20名が犠牲となった[5]。事故機の乗客には、チリアマチュアサッカー協会(英語版)の代表ルイス・メディナ(Luis Medina)、チリ中央サッカー協会(現在のチリプロサッカー協会(英語版)の前身)理事ペドロ・バレンスエーラ(Pedro Valenzuela)、3人の審判、アルゼンチン代表として活躍したエリセオ・モウリーニョ(スペイン語版)を含むクルブ・デ・デスポルト・グリーン・クロスの選手8人、トレーナー、コーチが含まれていた[3][10]

影響

オソルノ選抜とアウェーとなるオソルノで戦い、1-1のドローであったクルブ・デ・デスポルト・グリーン・クロスの選手は2機に分乗したが、経由地がより少ない621便にチームの主力選手が搭乗した影響もあり、ホームでの試合には0-1で敗れ、敗退している[10]。事故後、エリセオ・モウリーニョの旧所属チームであるボカ・ジュニアーズからの元アルゼンチン代表ゴールキーパーフリオ・ムシメッシ(英語版)を含む4人の無償レンタル移籍をはじめとする支援を各所より受けた。その年のプリメーラ・ディビシオンでは12位、翌年には最下位となり2部に陥落、1964年に復帰したものの、1965年にデポルテス・テムコ(スペイン語版)に合併された[3][11][12][4]

発見

尾部を除く機体は長期間行方不明となっていた。2015年1月、レオナルド・アルボルノス(Leonardo Albornoz)とローウェル・ロペス(Lower López)のチームによりマウレ州で発見された。機体の残骸は良好な状況にあり、人骨も確認されたが、現場の荒廃を防ぐため詳細な地点は伏せられ、標高3,200m、予想されていた地点よりも70km北とのみ明かされた[12][1][2][13]

  1. ^ この要請は、南下する他の航空機と干渉するため許可されなかった[5][7]

出典

  1. ^ a b Loreto Flores Ruiz (2015年2月3日). “Hallan restos de avión siniestrado en 1961 en la cordillera de Linares”. ラ・セグンダ. 2015年2月11日閲覧。
  2. ^ a b “50年前にサッカーチームと消えた旅客機、アンデス山中で残骸発見”. AFPBB (2015年2月9日). 2015年2月11日閲覧。
  3. ^ a b c “Se cumplieron 41 años de la tragedia de Green Cross”. ラ・クアルタ (2002年4月24日). 2015年2月12日閲覧。
  4. ^ a b c d Carlos González Lucay (2014年4月12日). “El vuelo eterno de Green Cross”. ラ・テルセーラ. 2015年2月12日閲覧。
  5. ^ a b c d “ASN Aircraft accident Douglas C-47A-35-DL (DC-3) CC-CLD-P210 La Gotera Hill”. アビエーション・セーフティー・ネットワーク. 2015年2月11日閲覧。
  6. ^ “Crash of a Douglas C-47 in Chile: 24 killed”. Bureau of Aircraft Accidents Archives. 2015年2月12日閲覧。
  7. ^ a b Jaime González Colville (2015年2月10日). “Hallazgo de avión”. 2015年2月13日閲覧。
  8. ^ Camila Quijada (2013年2月10日). “Las otras tragedias que han enlutado al fútbol chileno”. エル・リベルタドル. 2015年2月11日閲覧。
  9. ^ Claudio Toro (2015年2月4日). “El avión de Green Cross, la tragedia que enlutó al fútbol chileno”. カナル・デル・フットボル. 2015年2月13日閲覧。
  10. ^ a b Don Mackay (2015年2月5日). “Football team's plane wreck found in Chile after more than 50 years”. デイリー・ミラー. 2015年2月11日閲覧。
  11. ^ Francisco Siredey (2011年9月8日). “Equipo ruso alarga lista de tragedias aéreas del deporte”. ラ・テルセーラ. 2015年2月12日閲覧。
  12. ^ a b Sam Adams (2015年2月8日). “First footage of 'lost' plane which disappeared in Chile over 50 years ago carrying top football team”. デイリー・ミラー. 2015年2月11日閲覧。
  13. ^ “Un avión chileno siniestrado en Los Andes reaparece 53 años después”. AFPBB (2015年2月10日). 2015年2月13日閲覧。
←1960年・ 1961年 (1961)航空事故・インシデント ・1962年→