岩内線

岩内線
基本情報
現況 廃止
日本の旗 日本
所在地 北海道
起点 小沢駅
終点 岩内駅
駅数 6駅
開業 1912年11月1日
廃止 1985年7月1日[1]
所有者 日本国有鉄道
運営者 日本国有鉄道
路線諸元
路線距離 14.9 km
軌間 1,067 mm
線路数 単線
電化方式 全線非電化
最大勾配 12.5
最小曲線半径 300 m
閉塞方式 タブレット閉塞式
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停車場・施設・接続路線
(廃止当時)
凡例
函館本線
eABZq+l BHFq
0.0 小沢駅
exhKRZWae
セトセ川橋梁
exWBRÜCKE2
瀬戸川支流橋梁
exSKRZ-G2u
国道5号
exBHF
2.5 国富駅
exhKRZWae
上鮭川橋梁 シマツケナイ川
exhKRZWae
辰五郎川橋梁
exSKRZ-G2u
国道276号
exBHF
6.0 幌似駅
exhKRZWae
堀株川橋梁 堀株川
exhKRZWae
中野川橋梁
exhKRZWae
前田川橋梁
exBHF
9.0 前田駅
exhKRZWae
宿内川橋梁
exBHF
12.1 西前田駅
exKBSTaq exABZg+r
発足
exSTR
茅沼炭鉱専用鉄道
exSKRZ-G2BUE
国道229号
14.9 岩内駅
exLSTR
未成区間
exBHF
敷島内駅
exTUNNEL2
第3雷電トンネル 5,232m
exTUNNEL2
第2雷電トンネル 580m
exBHF
雷電駅
exTUNNEL2
刀掛トンネル 3,160m
exBHF
港町駅
exTUNNEL2
尻別トンネル 605m
exBHF
磯谷駅
exBHF
美谷駅
exTUNNEL2
第2種前トンネル 560m
exBHF
歌棄駅
exBHF
敷島内駅
exBHF
湯別駅
exBHF
中の川駅
exLSTR
未成区間
BHFq eABZqr
黒松内駅
函館本線

岩内線(いわないせん)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線地方交通線)である。北海道岩内郡共和町小沢駅函館本線から分岐し、同郡岩内町岩内駅までを結んでいた。1980年(昭和55年)の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行を受けて第1次特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)7月1日に廃止された[1]

路線データ

  • 管轄:日本国有鉄道
  • 区間(営業キロ):小沢 - 岩内 14.9km
  • 駅数:6(起点駅を含む)
  • 軌間:1,067mm
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化方式:なし(全線非電化
  • 閉塞方式:タブレット閉塞式
    • 交換可能駅:なし(全線1閉塞)

歴史

岩内線は、岩内と函館本線を接続する目的で、軽便鉄道法を準用して建設され、岩内軽便線(いわないけいべんせん)として1912年(大正元年)に全線が開業した。岩内はニシン漁で栄えた日本海に面した良港で、岩内線沿線にも茅沼炭鉱や、を産出する国富鉱山があり、海産物や石炭、鉱石の輸送で活況を呈した。しかし、ニシン漁の衰退や炭鉱、鉱山の閉山、バスやトラックの発達と道路整備により、岩内線の輸送量は客貨ともに減少し、1968年(昭和43年)には赤字83線の一つとして廃止対象とされるまでに至った。

1980年(昭和55年)に国鉄再建法が成立すると第1次特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)7月1日に廃止、バス路線へ転換された。

岩内線から、札幌方面に直通する準急急行列車「らいでん」も運行されていた(ニセコライナーを参照)。

前史(岩内馬車鉄道)

  • 1905年明治38年)7月:小沢 - 岩内間に岩内馬車鉄道開通。北海道鉄道(初代、現在の函館本線)との連絡運輸を行う[2]
  • 1909年(明治42年)5月:政府に鉄道敷設の請願を行うため、岩内鉄道期成同盟会を発足[3]
  • 1910年(明治43年)7月10日:鉄道院より岩内町に対し、敷設条件として土地提供の通牒発布[3]
  • 1912年(明治45年)5月11日:岩内馬車鉄道営業廃止。

岩内軽便線→岩内線

駅一覧

所在地は廃止時点のもの。全駅北海道に所在。

駅名 駅間キロ 営業キロ 接続路線 所在地
小沢駅[14] - 0.0 日本国有鉄道:函館本線 岩内郡共和町
国富駅[14] 2.5 2.5  
幌似駅[14] 3.5 6.0  
前田駅[14] 3.0 9.0  
西前田駅[14] 3.1 12.1  
岩内駅[14] 2.8 14.9   岩内郡岩内町

廃線跡

幌似駅と国富駅のホームが現存している。国富 - 岩内間のほとんどの区間が道路に転用された。

未成区間(黒松内 - 岩内)

もともとこの路線は瀬棚 - 寿都 - 岩内 - 然別間の鉄道敷設運動の結果、一部区間が承認されて建設された路線である。また、太平洋戦争後、函館本線の急勾配、急曲線を緩和するバイパスルートとして「後志國黒松内ヨリ岩内附近ニ至ル鐵道」(改正鉄道敷設法別表第130号ノ2。1953年(昭和28年)8月1日に公布・施行された「鉄道敷設法等の一部を改正する法律」(昭和28年法律第147号)によって追記)が計画された。

1957年(昭和32年)4月3日に調査線、1964年(昭和39年)6月25日に工事線となり、黒松内 - 湯別間では1968年(昭和43年)まで営業していた寿都鉄道の路盤跡を転用することも内定し、1965年(昭和40年)から現地測量設計も進んでいた[15]。1969年(昭和44年)10月1日には地元主催の着工式が行われた[7]

岩内線が全通すると、函館 ‐ 札幌間は函館本線経由より10km短縮、室蘭本線・千歳線経由より44km短縮されるとした[15][7]日本鉄道建設公団としては、時速100km以上のスピードを出せる最新式の施設にする予定としていた[7]。最急勾配は10‰、最小曲線半径は800m[16]。総事業費は103億円を予定していた[16]

1972年(昭和47年)10月24日に着工(工事実施計画)が認可され[9]、完成までに10年の工期と約100億円の工事費が必要とした[9]

着工認可直後の1972年10月25日、岩内町など沿線8町村が事前に開業後の赤字全額を地元で負担するとの“一札”を国鉄、日本鉄道建設公団に提出していたことが明らかとなった。国鉄の赤字を地方自治体が助成するとしたのは初めてのことで、運輸省は“一札”を事実上の確約書と受け取り、地元の約束履行を条件とし、国鉄の赤字がかさんでいることもあり、地元の熱意を汲んで新線着工を認めた[17]

“一札”の背景として、全通後は観光客の入り込みが予想されるものの、過疎化が著しい町村であるため、開業後は赤字が確実で、運輸省は工事実施計画の認可を渋っていたため、沿線8町村で結成する岩内線建設促進期成会は「新線の開業後、国鉄の営業収支が損失を生じたときは、その全額を関係町村で負担するので、すみやかに工事実施計画を認めるよう」との文書を国鉄、日本鉄道建設公団あてに1972年9月末に提出していた[17]

一方、自治省では異例のことだと問題視した。国鉄に対する地方自治体の補助は認められないとの見解を打ち出し、地方財政再建促進特別措置法により、地方団体が国、国鉄、公社、日本鉄道建設公団に対して寄付金や法律、政令に基づかない負担金を支出してはならないことを根拠とした。国鉄への助成を許せば他線区にも波及しかねず、事実ならば違法行為なので、やめさせる意向とした[17]

その後、自治省は北海道に事実関係を調べるよう求めた。新線着工を認可した運輸大臣の佐々木秀世は「地元の約束があったから認めた。今後、各町村がそれぞれの議会で正式に決めるものと確信している。もし約束が守られなければ工事命令を出さないこともあり得る」と自治省と対立した見解を示した。岩内線建設促進期成会は「“一札”そのものは期成会役員の名前で出しているが、期成会は地方自治体と異なる任意団体であり、地方財政再建促進特別措置法に抵触するとは考えない。実際の赤字負担をどうするかについては、同線の完成がかなり先のことであり、その時点で法律に触れないように考えればよい」とした[18]

北海道は自治省の指示に基づき岩内線建設促進期成会から事情を聞き、期成会では「陳情の経過からみて、地元で赤字負担をしなければ新線建設はダメだと判断した」「赤字負担は期成会が約束したもので、町村が約束したわけではないから、直ちに法律違反になるとは思わなかった」「函館本線が新線を回るようになれば、赤字になるかどうか分からない」など赤字負担を約束した事情を説明した。これに基づき、道では「赤字負担を約束したことは、将来違法な結果を招かざるを得ないので不適当である」との基本的態度を決めながらも、実際に新線が建設され、沿線町村が赤字を負担するようになるのは10年ほど先の問題であり、この間に閑散線問題が解決すれば違法性がなくなる可能性もあるとして、閑散線問題の解決を急ぐことが先決であるとの意見も合わせて、自治省に回答した[19]

1972年11月3日に日本鉄道建設公団主催の起工式が行われたが[10]、岩内駅付近など一部の用地買収が行われたのみで[8]、後に工事は中止された[20]

未成区間の延長は43.915kmで、雷電海岸や寿都鉄道の廃線跡を経由するとともに、第3雷電トンネル (5232m)、第2雷電トンネル (580m)、刀掛トンネル (3160m)、尻別トンネル (605m) 、第2種前トンネル(560m)などの長大トンネルも計画されていた[21]

計画されていた駅[20][21]
岩内駅 - 敷島内駅 - 雷電駅 - 港町駅 - 磯谷駅 - 美谷駅 - 歌棄駅 - 湯別駅 - 中の川駅 - 黒松内駅
  • 岩内 - 湯別間は日本海沿いを通る計画で、磯谷駅、歌棄駅は内陸を通る函館本線の目名駅(旧・磯谷駅)、熱郛駅(旧・歌棄駅)とは別位置。

並行道路

  • 北海道道266号大成黒松内停車場線
    • 北海道寿都郡黒松内町字黒松内(JR北海道黒松内駅) - 北海道寿都郡黒松内町黒松内(北海道道266号大成黒松内停車場線交点)間
  • 北海道道523号美川黒松内線
    • 北海道寿都郡黒松内町黒松内(北海道道266号大成黒松内停車場線交点) - 北海道島牧郡島牧村美川(国道229号交点)間
  • 国道229号
    • 北海道島牧郡島牧村美川(北海道道523号美川黒松内線) - 国道276号・北海道道270号岩内港線:岩内郡岩内町大浜(壁坂交点)間

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ a b “興浜北線など三線の旅客営業廃止軽微認定 運輸審議会”. 交通新聞 (交通協力会): p. 1. (1984年5月24日) 
  2. ^ 岩内町史 1966年(昭和41年)11月発行、P382。
  3. ^ a b 岩内港一班 1911年(明治44年)7月 勝見貫一郎 編集・発行、P38-40。
  4. ^ a b c 『北海道鉄道百年史 下巻』1981年3月 日本国有鉄道北海道総局 編集・発行、第5編資料/1年表。
  5. ^ a b c d 『北海道鉄道百年史 下巻』P765 。
  6. ^ 「鉄道省告示第109号」『官報』1922年9月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ a b c d e f 早期実現と安全祈る 国鉄新岩内線 町ぐるみ着工式 - 北海道新聞1969年10月2日朝刊
  8. ^ a b c d e 『鉄道未成線を歩く 国鉄編』JTB、2002年6月1日、168頁。 
  9. ^ a b c “岩内線の着工認可”. 北海道新聞. (1972年10月25日) 
  10. ^ a b “赤字負担はともかく 待望の岩内新線起工式”. 北海道新聞. (1972年11月4日) 
  11. ^ 「国鉄蒸気線区別最終運転日一覧」『Rail Magazine 日本の蒸気機関車』1994年1月号増刊
  12. ^ a b c 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 I』1998年10月 JTB編集・発行、P245。
  13. ^ 北海道運輸局 『北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査 調査報告書(概要版) 平成21年3月』 (PDF) P2,3。
  14. ^ a b c d e f 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』1998年10月 JTB編集・発行、P845。
  15. ^ a b “10月に地元着工式 国鉄岩内線 認可、明るい見通し”. 北海道新聞. (1969年6月30日) 
  16. ^ a b 『新線建設の概要』日本鉄道建設公団、1970年。 
  17. ^ a b c “新設岩内線 赤字は地元負担 沿線8町村が“一札” 運輸省の認可 約束履行条件に 自治省 法違反、認めぬ意向”. 北海道新聞. (1972年10月26日) 
  18. ^ 「自治省 道に調査指示 岩内新線の赤字地元負担問題 運輸省は「約束守らせる」」『北海道新聞』、1972年10月27日、朝刊。
  19. ^ 「将来違法招き不適当だが 閑散線の解決が先決 岩内線赤字地元負担で道意見」『北海道新聞』、1972年10月28日、朝刊。
  20. ^ a b 宝島社『全国未成線ガイド 知られざる鉄道路線』(草町義和 監修 2016年)p.88 - 89
  21. ^ a b 岩内線建設促進期成会関係資料

参考文献

  • 「注解 鉄道六法」平成20年版 国土交通省鉄道局監修 第一法規出版 2008年10月発行
    • 旧法 鉄道敷設法
  • 「旅」1999年11月号 特集:鉄道新時代 21世紀への序曲(JTB1999-11 No.874)
    • 別冊付録:改正「鉄道敷設法」別表を読む 三宅俊彦
  • 「JR時刻表」2009年3月号 交通新聞社 2009年3月1日発行
  • ニセコバス公式ホームページ(黒松内・長万部線 時刻表・料金)
  • ニセコバス公式ホームページ(雷電線 時刻表・料金)

関連項目

外部リンク

  • 国鉄&JR北海道の廃線路線シリーズ「岩内線」Japan's Abandoned Rail (The Iwanai Line ) - YouTube - 鉄道チャンネルHTB
  • 岩内線跡 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
第1次廃止対象路線
第2次廃止対象路線
第3次廃止対象路線
北海道
東北
関東・甲信越
北陸・東海
近畿
中国・四国
九州
路線名称は指定当時。この取り組みにより廃止された路線には、「*」を付した。
  1. ^ 現在の只見線の一部を含む。
  2. ^ 旅客営業のみ廃止し、路線自体は日豊本線の貨物支線として存続したのち1989年廃止。