東条城

曖昧さ回避 この項目では、三河国(現在の愛知県)にある東条城について説明しています。その他の用法については「東条城 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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東条城
愛知県
東条城主廓 櫓門・櫓(模擬再建)
東条城主廓 櫓門・櫓(模擬再建)
別名 東条城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 足利義氏
築城年 不明
主な城主 東条吉良氏、東条松平氏
廃城年 天正9年(1581年)
遺構 曲輪、土塁、堀
指定文化財 未指定
位置 北緯34度50分6秒 東経137度5分26秒 / 北緯34.83500度 東経137.09056度 / 34.83500; 137.09056
地図
東条城の位置(愛知県内)
東条城
東条城
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東条城(とうじょうじょう)は、三河国幡豆郡横須賀村東条[1](現・愛知県西尾市吉良町駮馬字城山)にあった、中世の日本の城平山城)。東条吉良氏東条松平氏の居城[2]。桜が植えられており、花見スポットになっている[3]

沿革

築城年代は不明。一説によると、承久3年(1221年)に、足利義氏が築き、三男吉良義継を入れる。以後、義継を祖とする前期東条吉良氏吉良尊義を祖とする後期東条吉良氏の居城となった。

城主の吉良氏は、戦国時代の義昭の時に永禄4年・同6年(1563年)と松平氏の攻撃に相次いで敗れて退城[4]、以後は東条松平家の居城となる。天正9年(1581年)城主松平家忠(甚太郎)が無嗣で病没し、家康の四男・松平忠吉が家忠養子となるが東条城には入らず、翌天正10年(1582年)には忠吉が駿河国沼津城主となり東条城は廃城となった。

その他、室町時代には冷泉為和が訪れて連歌の会が行われたり、織田信長徳川家康は鷹狩の際に訪れている[5]

城跡は現在「古城公園」として整備され、1992年(平成4年)に模擬櫓門と模擬櫓が復元されていたが、2021年(令和3年)に老朽化のため取り壊された[6]

  • 模擬櫓門
    模擬櫓門
  • 模擬櫓
    模擬櫓

脚注

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  1. ^ 『角川日本地名大辞典23 愛知県』
  2. ^ 大久保忠教の『三河物語』では「東祥」、成島司直『東照宮御実紀』巻二では「東條」と表記。
  3. ^ 東条城跡(古城公園)
  4. ^ 『三河物語』(大久保忠教(原著)日本戦史会編『三河物語』日本戦史会、1890年)では、今川氏から独立後の徳川家康は、西三河統一戦で今川方の西尾城・東条城に攻め掛けた →「但シ、西尾之城と東祥之城ハ駿河方ナレバ、切々之御働キ成…」、また三河一向一揆の項目では、一揆勢が敗北すると城主の吉良義諦(義昭)はどうすることもできず家康に謝罪して東条城を出たとする。→「然間、義諦モナラセラレ給ハズ御侘事被成而、東祥之城ヲ下リサセ給得供…」。
  5. ^ 現地案内板より
  6. ^ 一般社団法人西尾市観光協会

参考文献

  • 大久保忠教(原著)日本戦史会編『三河物語』(日本戦史会、1890年)。

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、東条城に関連するカテゴリがあります。
  • 古城公園(東条城跡) - 西尾観光(一般社団法人西尾市観光協会)
  • 東条城 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
  • 国立国会図書館 近代デジタル・ライブラリー閲覧
    1. 家康、西尾之城・東祥之城に働く
    2. 城主義諦、東条城を出る
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