いすゞ自動車硬式野球部

いすゞ自動車硬式野球部
チーム名(通称) いすゞ自動車、いすゞ
加盟団体 日本野球連盟
加盟区分 企業チーム
創部 1946年
廃部2003年から休部中)
チーム名の遍歴

  • 川崎いすゞ
  • いすゞ自動車
本拠地自治体

都市対抗野球大会
出場回数 14回
最近の出場 2002年
最高成績 優勝(1回)
日本産業対抗野球大会
出場回数 8回
最近の出場 1962年
最高成績 ベスト4
社会人野球日本選手権大会
出場回数 1回
最近の出場 2001年
最高成績 ベスト4
全日本クラブ野球選手権大会
出場回数 ※出場資格なし

いすゞ自動車硬式野球部(いすずじどうしゃこうしきやきゅうぶ)は、神奈川県藤沢市に本拠地を置き、日本野球連盟に所属している社会人野球の企業チームである。2003年から休部中。

神奈川県の企業チームとしては最も古い存在である[1]

概要

1946年いすゞ自動車の前身であるヂーゼル自動車工業の川崎工場で創部し[2]苅田久徳らが参加した[1]

活動初年度の1946年は、いきなり都市対抗野球に初出場を果たした。1959年1968年の都市対抗ではベスト8に進出したが、1971年都市対抗野球以降は10年以上にわたって本大会に進めなかった。

母体の業績不振もあって廃部も検討されたが(この期間に本拠地を藤沢市に移転。)、1987年に所正美が監督に就任すると謝長亨や康明杉を獲得するなど、2年間で24人の部員を入れ替え[3]1989年都市対抗野球で18年ぶりに本戦出場を果たし、1993年都市対抗野球ではベスト4に進出した。

2001年日本選手権に初出場を果たした。

2002年2月、母体の事業再建の影響からバスケットボール部とともに同年シーズン終了後からの休部が決まった[1][2]。同年は、都市対抗野球で初優勝を遂げ、9月に藤沢市民まつりの一環として藤沢駅周辺で優勝パレードを行ない[4]、活動を終えた。

沿革

主要大会の出場歴・最高成績

主な出身プロ野球選手

元プロ野球選手の競技者登録

かつて在籍していた主な選手・コーチ・監督

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c 毎日新聞、2002年2月8日付朝刊、P.23
  2. ^ a b “バスケットボール部・野球部の活動休止について(お知らせ)”. いすゞ自動車 (2002年2月7日). 2017年2月22日閲覧。
  3. ^ 毎日新聞、2000年3月28日付朝刊、神奈川地方面
  4. ^ 毎日新聞、2002年9月30日付朝刊、神奈川地方面
  5. ^ 高校野球人国記・東京(1)日大三
  6. ^ いすゞ自動車時代のルルデス・グリエル スポニチ Sponichi Annex (2014年5月31日)
  7. ^ グリエル父は阿部企業といすゞ自動車でプレー 都市対抗で一発も スポニチ Sponichi Annex (2014年5月31日)
  8. ^ 鉄村和之(日本経済新聞編集委員)『なぜDeNAに? キューバからグリエル獲得の舞台裏』 日本経済新聞 電子版 (2014年6月4日 7:00配信)

関連項目

1920年代
  • 1927 満州倶楽部
  • 1928 大連実業団
  • 1929 満州倶楽部
1930年代
  • 1930 東京倶楽部
  • 1931 東京倶楽部
  • 1932 全神戸
  • 1933 東京倶楽部
  • 1934 全大阪
  • 1935 東京倶楽部
  • 1936 門司鉄道局
  • 1937 八幡製鐵
  • 1938 藤倉電線
  • 1939 藤倉電線
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
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