メリーランド植民地

メリーランド植民地
Province of Maryland
1632年 - 1776年 アメリカ合衆国
メリーランド州
メリーランドの国旗 メリーランドの国章
(国旗) (国章)
メリーランドの位置
公用語 英語
首都 セント・メアリーズ・シティ、アナポリス
国王
1632年 - 1649年 チャールズ1世
1760年 - 1776年ジョージ3世
総督
1632年 - 1675年セシル・カルバート
変遷
設立 1632年
独立宣言1776年
通貨スターリング・ポンド
現在アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
メリーランド州 ワシントンD.C.

メリーランド植民地(メリーランドしょくみんち、: Province of Maryland)は、1632年から1776年まで、北アメリカ現在のアメリカ合衆国メリーランド州の領域に存在したイギリス植民地である。1776年に13植民地の他の12箇所とともにアメリカ合衆国を形成したときにメリーランド邦(メリーランド州)となった。

概要

メリーランド植民地は、新世界でイギリス人カトリック教徒の避難地を創りたいと願った初代ボルティモア男爵ジョージ・カルバートの領主植民地として始まった[1]。彼は当初、ニューファンドランド島の東部(アバロン半島)に入植地を築き、迫害されるカトリック教徒を入植させようとした。1623年には勅許を得て植民地にアヴァロン領と名付け、1625年には功績を讃えられ初代ボルティモア男爵に任ぜられた。しかしニューファンドランドは冬は寒い上に年中強風が吹きつける厳しい土地であり、ジョージも1629年にはアヴァロンを放棄せざるを得なくなった。彼は南の地への移転を模索することになり、その移転先として後にメリーランドとなる場所が選ばれた。ジョージはメリーランドに対する勅許を認められる前に没し、息子でありやはりカトリックであった第2代ボルティモア男爵カシラス・カルバート(セシル)が1632年に勅許を得た。

こうした経緯から、イギリスの植民地の中では信教の自由について先駆け的な位置付けだった。しかし初期はイングランド国教会ピューリタン、カトリックおよびクエーカーの間での宗教的闘争が日常茶飯事となり、ピューリタンの反乱が一時的に植民地を支配したこともあった。イギリスの名誉革命の後では、ジョン・クードがプロテスタントの反乱を率い、ボルティモア卿のメリーランドにおける権力を奪った。クードの政府は不人気であり、イングランド王ウィリアム3世もクード自身も王室が指名した総督を置こうと考えた。結局はライオネル・コプリーが総督となって1694年のその死まで治め、その後をフランシス・ニコルソンが引き継いだ[2]。植民地は第5代ボルティモア男爵チャールズ・カルバートがプロテスタントであることを公に誓約したときに、ボルティモア家に戻された。

南に位置するバージニア植民地と初期には競合もあったが、その後はバージニア植民地と同じような方向で発展した。初期の開拓地や人口はチェサピーク湾に注ぐ川などの水系周辺に集まる傾向があった。バージニア植民地と同様にその経済は直ぐにヨーロッパに販売するタバコの農園を中心とするようになった。タバコを栽培するために安い労働力を必要とし、また後にタバコの価格が崩壊したときに発展した混合農業経済でも労働力が必要だったので、年季奉公が急速に拡大し、後にはアフリカ人の強制移民と奴隷化に繋がっていった。

植民地時代後期では、南部や東部はタバコ経済が続いていたが、革命が近付くにつれて、北部や中部は徐々に小麦の生産地となっていった。このことで内陸のフレデリックのような農業の町や主要港湾市ボルティモアの発展を促した。メリーランド植民地はアメリカ独立に繋がる出来事に積極的に関わり、通信委員会の設立やボストン茶会事件で起こった出来事に類似するチェスタータウン茶会事件を起こすなど、ニューイングランドと同じ道を歩いた。

勅許

1632年6月20日、イングランド王チャールズ1世はアイルランド貴族第2代ボルティモア男爵カシラス・カルバート(セシル)に約1,200万エーカー (49,000 km2)の領主植民地メリーランドに対する勅許を認めた。歴史家の中にはこの勅許が、1625年にカシラス・カルバートの父である第1代ボルティモア男爵ジョージ・カルバートがカトリック教徒であることを宣言したときに国務大臣の肩書きを剥奪されていたことに対するある種の補償と見る者がいる。この勅許は当初ジョージ・カルバートに与えられたが、その実行前にジョージが死亡し、その代わりに息子カシラスに与えられた[3]。この新しい植民地は王妃ヘンリエッタ・マリアに因んで名付けられた[4]。ボルティモア卿はイギリス帝国の歴史の中で領主植民地を所有または獲得したことでは、唯一のカトリック教徒あるいはアイルランド貴族院議員だった。そのような他の貴族は全てイングランド、スコットランド、ブリテンあるいはイギリス王国の貴族称号を持っていた。

メリーランド植民地は現在のメリーランド州より大きかった。当初カルバートに与えられた勅許は、バージニア植民地の北から北緯40度線より南と不正確な定義があり、おそらくは1,200万エーカー (49,000 km2)ほどもあった[5]。イングランド王チャールズ2世がメリーランド勅許と一部重なる勅許をペンシルベニア植民地に認めた後、メイソン=ディクソン線が引かれたことで2つの植民地の間の論争を解決し、1760年代に当初想定されていた領土の一部をペンシルベニア植民地に渡した。アメリカ合衆国の独立の後には、コロンビア特別区を創るためにその領土をいくらか割譲した。

メリーランド設立の勅許では、「パラタイン領主」ボルティモア卿によって統治される状態を創った。支配者としてボルティモア卿は勅許で認められた土地全てを直接所有した。その領土に対して絶対的な統治権を持った。開拓者達はイングランド王に対してではなく、ボルティモア卿に対する忠誠を誓わされた。勅許は「荘園領主」の貴族も生み、ボルティモア卿から6,000エーカー (24 km2)を購入して、通常の開拓者達よりも大きな法的社会的特権を持った。

初期の開拓

メリーランド植民地は南部の植民地だった。ボルティモア卿はカトリックへの改宗者だった。このことは、ローマ・カトリック教会が王室の敵であり、国に対する裏切り者と考えられた17世紀イングランドの貴族にとっては汚点だった。メリーランドでは、ボルティモア卿がイギリスのカトリック教徒にとっての天国を創り、カトリック教徒とプロテスタントが共に調和して暮らせるということを示そうと考え、宗教に関する法を発行して信教に対する寛容さを示しさえした。他の貴族領主と同様、新しい植民地を利益に繋ごうとも期待していた。

カルバート家はカトリック教徒の貴族やプロテスタント開拓者を寛大な土地の利用許可と信教の寛容方針で誘い、メリーランドへの移住者を募った。アーク号とダブ号でメリーランドに渡った当初の開拓者200人の中で大半はプロテスタントだった。実際に、プロテスタントはメリーランド植民地の歴史では多数派であり続けた。

アーク号とダブ号は1634年3月25日にセントクレメント島に到着した。新しい開拓者達はボルティモア卿の弟レナード・カルバートに率いられており、ボルティモア卿はレナードに新しい植民地の知事として務めさせた。150人ほどの生き残った移民がヤオコミコ族インディアンから土地を買い、セントメアリー市を設立した。

1642年、メリーランドはサスケハノック族に宣戦布告した。サスケハノック族はニュースウェーデンの助けを得て1644年にメリーランドを破った。サスケハノック族は1652年に休戦条約が締結されるまでメリーランドと緩慢な交戦状態であり続けた。

メリーランドとイギリス内戦

1654年、第三次イングランド内戦(1649年-1651年)の後、議会軍(プロテスタント)がメリーランドを支配し、ウィリアム・ストーン知事はバージニア植民地に追放された。ストーンは翌春王党派(カトリック)の首長として戻り、アナポリス市に行軍した。

セバーンの戦い(1655年3月25日)と呼ばれるものでストーンは敗れ捕虜になった。ストーンはジョシアス・フェンドール(1628年頃-1687年)と知事を交代させられた。

植民地時代後期とプランテーション経済

1672年、ボルティモア卿はニューヨーク植民地の支配下にあったデラウェア湾西岸のホアキルズ開拓地をメリーランドに含めると宣言した。軍隊が派遣されてこの開拓地を襲い占領した。ニューヨークはその後間もなくオランダに占領されたために直ぐに反応できなかった。メリーランドはオランダがその同盟者であるイロコイ連邦を使ってこの開拓地を再奪取しにくることを恐れた。1674年11月にニューヨークがオランダから取り戻されたときに、この開拓地もニューヨーク植民地に戻した。

17世紀のメリーランド住人の大半は小さな家庭農園で厳しい条件の中を暮らしていた。彼等は様々な果物、野菜、穀物を栽培し家畜を育てる中で、換金作物としてのタバコが植民地経済の中心になった。タバコはときには金として使われ、植民地議会は植民地人が飢えないことを保証するためにタバコ農家にある量のトウモロコシも栽培させる法律を成立させた。

隣接する大きなバージニア植民地と同様、メリーランドも18世紀までにプランテーションの植民地に発展した。1755年までに、メリーランド人口の40%が黒人だった[6]。農園主は広範に年季奉公や受刑労働者も活用するようになった。川の水系を使って内陸プランテーションの生産物が輸出されるために大西洋岸に輸送され、ボルティモアはサウスカロライナ植民地のチャールストンに続いて18世紀の南部では2番目に重要な港になった。

独立戦争

この植民地ではタバコが主要な換金作物の一つだった。メリーランドは1776年サミュエル・チェイスウィリアム・パカトマス・ストーンおよびキャロルトンのチャールズ・キャロルが植民地のためにアメリカ独立宣言に署名し、イギリスからの独立を宣言した。1776年から1777年連合規約に関する議論で、メリーランド代表は、西部の土地の所有権主張する邦が連合政府にその権利を放棄するよう主張する会派を主導し、1781年に連合規約を批准することでは最後の邦となった。アメリカ合衆国憲法の容認ではもっと容易に1788年4月28日に批准した。

脚注

  1. ^ 世界の歴史21, p23
  2. ^ Events that Changed America Through the Seventeenth Century By John E. Findling, Frank W. Thackeray, pp. 133-134.
  3. ^ Sparks, Jared (1846). The Library of American Biography: George Calvert, the first Lord Baltimore. Boston: Charles C. Little and James Brown. pp. 16-. https://books.google.co.jp/books?id=RBsNAAAAIAAJ&pg=PR3&dq=Leonard+Calvert&redir_esc=y&hl=ja#PPA16,M1 
  4. ^ Maryland State Manual
  5. ^ Alan Taylor, American Colonies (New York: Viking, 2001), p.136; John Mack Faragher, ed., The Encyclopedia of Colonial and Revolutionary America (New York: Facts on File, 1990), p.254.
  6. ^ John Mack Faragher, ed., The Encyclopedia of Colonial and Revolutionary America (New York: Facts on File, 1990), p.257

出典

  • 五十嵐武士・福井憲彦『アメリカとフランスの革命(世界の歴史 21)』中央公論社、1998年3月。ISBN 4-12-403421-0。 

関連項目

外部リンク

ウィキソースにen:Charter of Marylandの原文があります。
  • Colonial history of Maryland

* 現在は英連邦王国  ·   現在はイギリス連邦の一員

ヨーロッパ

12世紀
1337-1453  フランス

18世紀
1708–1757  メノルカ島
1713-  ジブラルタル
1763–1782  メノルカ島
1798–1802  メノルカ島

19世紀
1800–1964  マルタ直轄植民地
1801-1921  アイルランド
1807–1890  ヘルゴラント島
1809–1864  イオニア諸島合衆国

20世紀
1921-1937  アイルランド自由国

北アメリカ

17世紀
1607–1776  バージニア
1610–1907  ニューファンドランド
1619-  バミューダ諸島
1620–1691  プリマス
1629–1691  マサチューセッツ湾植民地
1632–1776  メリーランド
1636–1776  コネチカット
1636–1776  ロードアイランド
1637–1662  ニューヘイブン植民地
1663–1712  カロライナ
1664–1776  ニューヨーク
1665–1674 及び 1702-1776  ニュージャージー
1670–1870  ルパート・ランド
1674–1702  東ジャージー
1674–1702  西ジャージー
1680–1776  ニューハンプシャー
1681–1776  ペンシルベニア
1686–1689  ニューイングランド
1691–1776  マサチューセッツ

18世紀
1701–1776  デラウェア
1712–1776  ノースカロライナ
1712–1776  サウスカロライナ
1713–1867  ノバスコシア
1733–1776  ジョージア
1763–1873  プリンスエドワード諸島
1763–1791  ケベック植民地
1763–1783  東フロリダ
1763–1783  西フロリダ
1784–1867  ニューブランズウィック
1791–1841  ローワー・カナダ
1791–1841  アッパー・カナダ

19世紀
1818–1846  コロンビア地区 / オレゴン・カントリー1
1841–1867  カナダ植民地
1849–1866  バンクーバー諸島
1853–1863  クイーンシャーロット諸島植民地
1858–1866  ブリティッシュ・コロンビア領
1859–1870  北西領
1862–1863  スティキン領
1866–1871  バンクーバー島・ブリティッシュコロンビア連合植民地
1867–1931  *カナダ (ドミニオン)2

20世紀
1907–1949  ニューファンドランド3

^1アメリカ合衆国と共同占有。
^21931年、ウェストミンスター憲章によりカナダと他のイギリス自治領は自らの政府を持つ。(イギリス連邦も参照)
^31934年に自治政府を自ら放棄し、1949年にカナダに編入されるまで事実上のイギリス自治領。

ラテンアメリカとカリブ海

17世紀
1605–1979  *セントルシア
1623–1883  セントキッツ・ネイビス
1624–1966  ·バルバドス
1625–1650  セント・クロイ島
1627–1979  *セントビンセント・グレナディーン
1628–1883  セントキッツ・ネイビス
1629–1641  セント・アンドリュー・プロビデンス諸島4
1632-  モントセラト
1632–1860  アンティグア(アンティグア・バーブーダ)
1643–1860  バイア諸島
1650-  アンギラ
1651–1667  ウィロフビーランド(スリナム)
1655–1850  モスキート湾
1655–1962  *ジャマイカ植民地
1666-  イギリス領ヴァージン諸島
1670-  ケイマン諸島
1670–1973  *バハマ
1670–1688  セント・アンドリュー・プロビデンス諸島4
1671–1816  リーワード諸島

18世紀
1762–1974  *グレナダ
1763–1978  ドミニカ
1799-  タークス・カイコス諸島

19世紀
1831–1966  ギアナ(ガイアナ)
1833–1960  ウィンドワード諸島
1833–1960  リーワード諸島
1860–1981  *アンティグア・バーブーダ
1871–1964  ホンジュラス(ベリーズ)
1882–1983  *セントキッツ・ネイビス
1889–1962  トリニダード・トバゴ

20世紀
1958–1962  西インド連邦

^4現在のコロンビアサン・アンドレス・イ・プロビデンシア県

アフリカ

18世紀
1792–1961  シエラレオネ
1795–1803  ケープ植民地

19世紀
1806–1910  ケープ植民地
1816–1965  ガンビア
1856–1910  ナタール
1868–1966  バストランド(レソト)
1874–1957  ゴールド・コースト
1882–1922  エジプト
1884–1966  ベチュアナランド(ボツワナ)
1884–1960  ソマリランド
1887–1897  ズールーランド
1888–1894  マタベレランド
1890–1980  南ローデシア(ジンバブエ)
1890–1962  ウガンダ
1890–1963  ザンジバル(タンザニア)
1891–1964  ニヤサランド(マラウイ)
1891–1907  中央アフリカ
1893–1968  スワジランド
1895–1920  東アフリカ
1899–1956  スーダン

20世紀
1900–1914  北ナイジェリア
1900–1914  南ナイジェリア
1900–1910  オレンジ川植民地
1900–1910  トランスヴァール植民地
1906–1954  ナイジェリア植民地
1910–1931  南アフリカ
1911–1964  北ローデシア(ザンビア)
1914–1954  ナイジェリア
1915–1931  南西アフリカ(ナミビア)
1919–1960  カメルーンズ(カメルーン) 5
1920–1963  ケニア植民地
1922–1961  タンガニーカ(タンザニア) 5
1942-1951  リビア
1949-1951  キレナイカ首長国
1954–1960  ナイジェリア連邦

^5国際連盟委任統治

アジア

17世紀
1685-1824  ブンクル州
スマトラ島

18世紀
1702–1705  コンダオ諸島
1757–1947  西ベンガル(インド)とバングラデシュ
1762–1764  フィリピン
1795–1948  セイロン(スリランカ)
1796–1965  モルディブ

19世紀
1819–1826  マレー半島・シンガポール
1826–1946  海峡植民地
1839–1967  アデン植民地
1841–1997  香港
1841–1941  サラワク王国(マレーシア)
1854-1963  上海租界
1848-1946  ラブアン直轄植民地
1858–1947  イギリス領インド(インド、パキスタン、バングラデシュ、ビルマ)
1860-1943  天津租界
1861-1927  漢口租界
1861-1927  鎮江租界
1861-1927  九江租界
1862-1943  沙面租界
1862-1930  厦門租界
1863-1943  上海共同租界
1882–1963  北ボルネオ(マレーシア)
1885–1946  非連合マレー諸国
1888–1984  ブルネイ・スルターン国
1888–1946  スールー王国
1891–1971  マスカット・オマーン
1892–1971  トルシアル諸国保護領
1895–1946  連合マレー諸国
1898–1930  威海衛租借地
1898-1997  新界租借地
1878–1960  キプロス

20世紀
1902-1943  鼓浪嶼共同租界
1918–1961  クウェート
1920–1932  イラク5
1921–1946  トランスヨルダン5
1923–1948  パレスチナ5
1941-1946  イラン
1945–1946  南ベトナム
1946–1948  マラヤ連合
1946–1952  連合国として日本占領
1946–1963  サラワク(マレーシア)
1948–1957  マラヤ連邦(マレーシア)
since 1960  アクロティリおよびデケリア(かつてのキプロスの一部)
since 1965  イギリス領インド洋地域

^5国際連盟委任統治

オセアニア

18世紀
1788–1901  ニューサウスウェールズ

19世紀
1803–1901  ヴァン・ディーメンズ・ランド/タスマニア
1807–1863  オークランド諸島6
1824–1980  ニューヘブリディーズ諸島(バヌアツ)
1824–1901  クイーンズランド
1829–1901  スワン川植民地/西オーストラリア
1836–1901  南オーストラリア
since 1838  ピトケアン諸島
1841–1907  ニュージーランド植民地
1851–1901  ビクトリア
1874–1970  フィジー7
1877–1976  イギリス領西太平洋
1884–1949  パプア領
1888–1965  クック諸島6
1889–1948  トケラウ6
1892–1979  ギルバート・エリス諸島8
1893–1978  イギリス領ソロモン諸島9

20世紀
1900–1970  トンガ
1900–1974  ニウエ6
1901–1942  *コモンウェルス・オブ・オーストラリア
1907–1953  *ニュージーランド
1919–1942  ナウル
1945–1968  ナウル
1919–1949  ニューギニア領
1949–1975  パプアニューギニア領10

^6現在はニュージーランド王冠の一部
^7延期メンバー
^8現在はキリバスツバル
^9現在はソロモン諸島
^10現在はパプアニューギニアの一部

南極大陸と南大西洋

17世紀
1659-  セントヘレナ

19世紀
1815-  アセンション島11
1816-  トリスタンダクーニャ11
1833-  フォークランド諸島12

20世紀
1908-  イギリス領南極地域1314
1908-  サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島1213

^111922年(アセンション島)よりセントヘレナの、1938年より(トリスタンダクーニャ)の属領
^12フォークランド戦争中の1982年4月から6月までアルゼンチンの占領下
^131908年より主張されている
^14南極条約により領土主権や請求権は凍結されている

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