丘浮尤鞮単于

丘浮尤鞮単于(きゅうふゆうていぜんう、拼音: Qiūfúyóudīchányú、 ? - 57年)は、中国後漢時代の南匈奴単于烏珠留若鞮単于の子、醢落尸逐鞮単于の弟。丘浮尤鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名はという。

生涯

烏珠留若鞮単于の子として生まれる。

建武24年(48年)、兄の比(醢落尸逐鞮単于)が呼韓邪単于と称し南単于となると、莫は左賢王となる。

建武25年(49年)、単于比は莫を派遣し、北単于の弟の薁鞬左賢王を討たせてこれを生け捕り、北単于庭(北匈奴の本拠地)を破った。

中元元年(56年)、醢落尸逐鞮単于が薨去すると、莫が丘浮尤鞮単于として即位した。

中元2年(57年)、即位して1年で薨去し、弟の汗(伊伐於慮鞮単于)が代わって立った。

参考資料

南匈奴の第2代単于(56年 - 57年)
統一時代

頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / 右谷蠡王単于前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / 呴犁湖単于前102 / 且鞮侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍鞮単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍朐鞮単于前60-前58

分裂時代
東匈奴

呼韓邪単于前58-前31

西匈奴

郅支単于前56-前36

対立単于

屠耆単于前58-前56 / 呼掲単于前57 / 車犁単于前57-前56 / 烏藉単于前57 / 烏藉単于(重祚)前56 / 閏振単于前56-前54 / 伊利目単于前49

再統一時代
王莽が冊立した単于

孝単于11-13 / 順単于(助)11 / 順単于(登)11-12 / 須卜単于18-21

北匈奴

蒲奴単于46-? / 優留単于?-87 / 北単于88-? / 於除鞬単于91-93

南匈奴
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