呼徴

呼徴(こちょう、拼音:Hūzhēng, ? - 179年)は、中国後漢時代の南匈奴単于屠特若尸逐就単于の子。

生涯

光和元年(178年)に即位する。

光和2年(179年)、使匈奴中郎将の張脩は単于呼徴と仲が悪く、張脩は独断で単于呼徴を斬り、代わって右賢王[1]羌渠を単于に立てた。張脩は事前に朝廷の承認を得ずに単于を誅殺したので、檻車で廷尉に護送され死罪に処せられたが、羌渠の即位は認められた。

脚注

  1. ^ 右賢王(うけんおう)は匈奴における単于位継承第三位。

参考資料

南匈奴の第17代単于(178年 - 179年)
統一時代

頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / 右谷蠡王単于前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / 呴犁湖単于前102 / 且鞮侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍鞮単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍朐鞮単于前60-前58

分裂時代
東匈奴

呼韓邪単于前58-前31

西匈奴

郅支単于前56-前36

対立単于

屠耆単于前58-前56 / 呼掲単于前57 / 車犁単于前57-前56 / 烏藉単于前57 / 烏藉単于(重祚)前56 / 閏振単于前56-前54 / 伊利目単于前49

再統一時代
王莽が冊立した単于

孝単于11-13 / 順単于(助)11 / 順単于(登)11-12 / 須卜単于18-21

北匈奴

蒲奴単于46-? / 優留単于?-87 / 北単于88-? / 於除鞬単于91-93

南匈奴
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