薁鞬左賢王単于

薁鞬左賢王 単于(いくけんさけんおう ぜんう、拼音:Yùjiānzuŏxiánwáng Chányú、? - 50年)は、中国後漢時代の南匈奴の対立単于。呼都而尸道皋若鞮単于の子で、蒲奴の弟。もと北匈奴の薁鞬[1]左賢王だったため、薁鞬左賢王単于と呼ばれる。姓は攣鞮氏、名は不明。

生涯

呼都而尸道皋若鞮単于の子として生まれる。

建武22年(46年)、兄の蒲奴が単于に即位すると、薁鞬左賢王に任ぜられる。

建武24年(48年)冬、右薁鞬日逐王のが呼韓邪単于と称して自立、南匈奴を創始する。これによって匈奴は南北に分裂し、もとの方は北匈奴となった。

建武25年(49年)、南匈奴左賢王のが1万の兵を率いて攻めてきた。薁鞬左賢王は生け捕られ、北匈奴の単于庭(本拠地)が破られ、北単于の蒲奴は1千余里も退去した。

建武26年(50年)夏、薁鞬左賢王は同じく捕えられた北匈奴の民衆および5人の骨都侯ら計3万余人を率いて叛き、北庭(北匈奴の単于庭)から300余里の地点で単于に推戴された。しかし、1か月あまりが過ぎると、互いに攻撃し合い、5人の骨都侯は死に、薁鞬左賢王は自殺した。

脚注

  1. ^ 内田吟風氏は『北アジア史研究 匈奴篇』において、“薁鞬(いくけん)”は後の柔然突厥などに見られるイルキン(irkin)の漢字訳ではないかとしている。

参考資料

南匈奴対立単于(50年)
統一時代

頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / 右谷蠡王単于前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / 呴犁湖単于前102 / 且鞮侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍鞮単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍朐鞮単于前60-前58

分裂時代
東匈奴

呼韓邪単于前58-前31

西匈奴

郅支単于前56-前36

対立単于

屠耆単于前58-前56 / 呼掲単于前57 / 車犁単于前57-前56 / 烏藉単于前57 / 烏藉単于(重祚)前56 / 閏振単于前56-前54 / 伊利目単于前49

再統一時代
王莽が冊立した単于

孝単于11-13 / 順単于(助)11 / 順単于(登)11-12 / 須卜単于18-21

北匈奴

蒲奴単于46-? / 優留単于?-87 / 北単于88-? / 於除鞬単于91-93

南匈奴

醢落尸逐鞮単于48-56 / (薁鞬左賢王単于)50 / 丘浮尤鞮単于56-57 / 伊伐於慮鞮単于57-59 / 醢僮尸逐侯鞮単于59-63 / 丘除車林鞮単于63 / 湖邪尸逐侯鞮単于63-85 / 伊屠於閭鞮単于85-88 / 休蘭尸逐侯鞮単于88-93 / 安国単于93-94 / 亭独尸逐侯鞮単于94-98 / 逢侯単于94-118 / 萬氏尸逐侯鞮単于98-124 / 烏稽侯尸逐鞮単于124-128 / 去特若尸逐就単于128-140 / 車紐単于140 / 呼蘭若尸逐就単于143-147 / 伊陵尸逐就単于147-172 / 屠特若尸逐就単于172-177 / 呼徴単于178-179 / 羌渠単于179-188 / 持至尸逐侯単于188-195 / 須卜骨都侯単于188-189 / 老王による執政189-195 / 呼廚泉単于195-216

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