萬氏尸逐侯鞮単于

萬氏尸逐侯鞮単于(ばんししちくこうていぜんう、拼音:Wànshìshīzhúhóudīchányú, ? - 124年)は、中国後漢時代の南匈奴単于湖邪尸逐侯鞮単于の子。萬氏尸逐侯鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名はという。

生涯

湖邪尸逐侯鞮単于の子として生まれる。

永元10年(98年)、従兄の亭独尸逐侯鞮単于薨去すると、檀が萬氏尸逐侯鞮単于として即位した。単于檀は連年、軍を出して逢侯を討ち破り、逢侯の衆は急速に困窮していった。

永元16年(104年)、北単于は漢の朝廷に使者をよこして和親を願った。しかし朝廷の返答はなく、ただ厚く賞賜を加えただけであり、翌年(105年)も使者をよこしたが同様の対応だった。

永初3年(109年)、南単于に随従している漢人の韓琮が漢に入朝して帰国し、単于に「関東で洪水があって、人民は飢餓死しており、漢を撃つのは今です」と説いた。単于檀はこれを信じ、挙兵して使匈奴中郎将の耿種を美稷にて攻撃した。これに対し朝廷は行車騎将軍の何熙・副中郎将の龐雄を派遣して討伐した。

永初4年(110年)、単于檀は千余騎を繰り出し、常山中山を侵略した。朝廷は西域校尉の梁慬を行度遼将軍とし、遼東太守耿夔とともにこれを撃破させた。単于檀は使者を送って降伏を願い出て、龐雄らに対し帽子を脱いで陳謝した。朝廷はこれを許し、処遇も元の通りとした。

建光元年(121年)、鮮卑が辺境を寇掠したので、度遼将軍の耿夔は温禺犢王の呼尤徽とともに、新降者を率いて連年長城を出て鮮卑を討伐し、新降者を得ては要害の地に配し、また出兵があればその新降者を徴兵したので、耿夔は新降者の反感を買っていた。(これが原因でのちに反乱が起こる)

延光3年(124年)に薨去し、代わって弟の抜(烏稽侯尸逐鞮単于)が立った。

参考資料

南匈奴の第11代単于(98年 - 124年)
統一時代

頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / 右谷蠡王単于前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / 呴犁湖単于前102 / 且鞮侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍鞮単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍朐鞮単于前60-前58

分裂時代
東匈奴

呼韓邪単于前58-前31

西匈奴

郅支単于前56-前36

対立単于

屠耆単于前58-前56 / 呼掲単于前57 / 車犁単于前57-前56 / 烏藉単于前57 / 烏藉単于(重祚)前56 / 閏振単于前56-前54 / 伊利目単于前49

再統一時代
王莽が冊立した単于

孝単于11-13 / 順単于(助)11 / 順単于(登)11-12 / 須卜単于18-21

北匈奴

蒲奴単于46-? / 優留単于?-87 / 北単于88-? / 於除鞬単于91-93

南匈奴

醢落尸逐鞮単于48-56 / 薁鞬左賢王単于50 / 丘浮尤鞮単于56-57 / 伊伐於慮鞮単于57-59 / 醢僮尸逐侯鞮単于59-63 / 丘除車林鞮単于63 / 湖邪尸逐侯鞮単于63-85 / 伊屠於閭鞮単于85-88 / 休蘭尸逐侯鞮単于88-93 / 安国単于93-94 / 亭独尸逐侯鞮単于94-98 / 逢侯単于94-118 / 萬氏尸逐侯鞮単于98-124 / 烏稽侯尸逐鞮単于124-128 / 去特若尸逐就単于128-140 / 車紐単于140 / 呼蘭若尸逐就単于143-147 / 伊陵尸逐就単于147-172 / 屠特若尸逐就単于172-177 / 呼徴単于178-179 / 羌渠単于179-188 / 持至尸逐侯単于188-195 / 須卜骨都侯単于188-189 / 老王による執政189-195 / 呼廚泉単于195-216

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